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『日中戦争の正体』中共・ソ連・ドイツにだまされた

主催:幕末史を見直す会 2020/8/1  於:学士会館
まほろばジャパン02 mahorobajapan
「日中戦争(=支那事変)は誰が何のために戦ったのか」
これが分からないまま「日本は反省して謝るべき」とは何なのか。事実に沿ってみていけば、日中戦争は三段階に変化しています。
 1.中共が仕組んだ盧溝橋事件
 2.ドイツが仕掛けた上海戦(第二次上海事件)
 3.ドイツにだまされた三国同盟
そして、太平洋戦争の「開戦の詔勅」には支那事変を武力解決するために米英と戦う、と書いてあります。

1.中共が仕組んだ盧溝橋事件

【01:36】 昭和12年7月7日に、日本軍の135人が盧溝橋という橋の近くで夜間演習中に蒋介石軍の方角から数十発の実弾が撃ち込まれ、反撃したというのが事件の概要。

【02:40】 参謀本部作戦部長の石原莞爾少将は「不拡大」方針。

【04:00】 7月11日に「松井太久郎・秦徳純 停戦協定」を締結。18日には中国側から謝罪。

・・・・・・盧溝橋事件はいったん 終結。

【06:40】 中国共産党(毛沢東・周恩来たち)が強硬な主戦論で、事件直後に「対日即時開戦せよ」という3本の電報(「7・8通電」)を、全国紙や各種団体や宋哲元、蒋介石に送った。

【08:10】 盧溝橋事件の本質は、蒋介石軍と日本軍を戦わせて共倒れさせ、中国共産党が漁夫の利を得る、ことが目的で仕組まれた事件 

【08:55】 中国共産党軍は兵力3万と小さく、蒋介石軍70万に追われてソ連に近い山奥の延安に逃げ込み拠点とした。

【09:55】 昭和10年7月、モスクワで「第七 コミンテルン大会」開催。中国共産党はスターリンから「日本と蒋介石軍を戦わせるために抗日統一戦線を結成せよ」という指示を受けて、劉少奇などを中心に結成した。

・・・・・・・日中戦争の本当の始まり

【10:35】 昭和11年4月、蒋介石軍の最前線司令官の張学良が 延安の中国共産党軍を滅ぼす最終段階で寝返り、周恩来と密談して蒋介石を裏切った。

【12:58】 「西安事件」 軍を進めない張学良に督戦しに来た蒋介石を拘束。殺されるところをスターリンが「周恩来は日本と闘わせるために生かしておけ」

第二次国共合作(スターリンの指示のもと蒋介石軍は中国共産党軍と手を結んで日本軍と戦う)

【14:35】 蒋介石と中国共産党メンバーが廬山会議中の7日目に盧溝橋事件勃発

【18:48】 誰が盧溝橋事件を起こしたか。日本の参謀本部ロシア課長の笠原幸雄大佐は「盧溝橋事件は中国共産党が起こしたものである。起こさせたのはコミンテルンのスターリンであるだろう。従って、志那事変については早期に終結させる必要がある」

・・・・・・中国共産党の劉少奇がコミンテルンの指示を受けて 盧溝橋事件を起こしたと思われる。

2.ドイツが仕掛けた上海戦(第二次上海事件)

【22:21】「敗戦国のドイツに学んで謝罪すべき」というのは、歴史を知らない人の上滑りな発言である。

【24:53】 第一次大戦に敗北して軍事削減されたドイツでは最後の参謀総長ゼークトが再建に取り組み、ソ連とラパッロ条約を結んで、重工業を支援。戦闘機や戦車などの兵器を製造し、製品は山分けした。

【26:44】 ドイツの指導によりソ連軍は近代化を遂げ、ノモンハン事件(満州国とモンゴルの国境地帯で起きた地域紛争。満州を日本、モンゴルをソ連が支援した)では日本軍の戦車はソ連の戦車に歯が立たなかった。ゼークトはソ連やスウェーデンを通じてドイツの軍備近代化を行った。

【29:20】 定年退職したゼークトを、蒋介石が高額の報酬を提示して中国へ招聘。ゼークトは蒋介石軍を近代化するためにドイツ軍兵器を装備した20個師団を編成する。最も模範となる教導総隊が蒋介石軍の最精鋭部隊で、日本軍を苦しめた。
【30:23】 ゼークトはドイツに戻ってヒトラーに「中国と手を組むべき」と進言。ドイツは国を挙げて中国と貿易を行い、最新兵器を中国に輸出してドイツが再軍備するための財源を確保した。
【32:29】 軍隊は闘わないと強くならない。ドイツ軍は幾つかの国の紛争を支援した。昭和12年4月にスペイン内戦でフランコ側についてゲルニカを無差別爆撃したのも実戦経験を得るのが目的だった。

・・・・・・ドイツは中国への武器輸出で財源を得、上海戦を実践経験の場とした。

【34:32】 昭和12年8月Ⅰ3日、上海戦勃発。ファルケンハウゼン中将が蒋介石軍の軍服を着て陣頭指揮した。F中将の戦術は、10倍の兵力で最新の兵器を使って奇襲攻撃をかける。蒋介石軍はドイツ製の鉄帽をかぶり最新の機関銃を装備して、度重なる夜襲をかけ、日本軍は全滅の危機に瀕した。

【38:35】上海戦の2年前の昭和10年1月、中将が蒋介石に提出した「中国国防基本方針」基づいて戦闘が行われた。

【41:15】 ファルケンハウゼン中将の作戦は、上海周辺には地下壕でつないだ要塞やトーチカ陣地を作り、さらにヒンデンブルグラインと呼ぶ強固な陣地、南京周辺にも多くの外周陣地を作った。上海から南京まで日本軍を痛めつけてせん滅する作戦だった。

【44:40】 石原莞爾がこれを見抜いて、上海派兵を断固反対した。上海の在留邦人は引き上げさせて、ドイツが指揮する中国軍とは戦うべきではない」と主張。優れた判断だった。が、昭和天皇は大軍を派兵して蒋介石軍に大打撃を与えて、和平に持ち込む方策なきや」と積極的で、不拡大方針の石原莞爾は失脚した。

3.ドイツにだまされた三国同盟【48:25~】

【49:36】 昭和10年1月ファルケンハウゼン中将が蒋介石に「日本軍を戦争に引き込み、支那奥地へ誘い込んで英米に叩き潰させる」という「中国国防基本方針」を提言。一方で同年の10月にドイツ人リッペンドロップ(のちに外務大臣)が駐独大使館付き武官・大島少佐に「日独防共協定」を提案。

【49:52】 ドイツの二股外交に騙されて、昭和11年11月「日独防共協定」を調印。「ドイツは友好国だ」とビールで乾杯、日章旗とハーケンクロイツを掲げて祝った。

【52:00】 昭和12年8月からの上海戦で日本軍は苦戦を続けたが、第十軍(司令官 柳川平助中将)が上海の後背にあたる杭州に上陸すると、退路を断たれると恐怖した蒋介石軍は一斉に退却。昭和12年11月9日日本軍は上海を陥落、勝利した。

【53:11】 蒋介石政府は11月15日に最高機密会議を開き、ファルケンハウゼン中将が提案する「南京は撤退して、日本軍を奥地へ誘い込んで長期戦に持ち込み英・米軍に叩き潰させる」を採用した。

【55:55】 日本軍も蒋介石もドイツにだまされた。

【58:20】 上海から南京へ進行するか否か、について参謀本部作戦課長の河辺虎四郎大佐が上海派遣軍司令部を訪れた。現地軍としては、約5万人が戦死して疲れ切っており、上海攻略で終戦としたい意向だった。

【59:31】 河辺作戦課長は11月21日、「対支那中央政権方策」にて蒋介石軍に南京を保持させてメンツを保ち、南京~上海間を非武装地帯として日支停戦して、蒋介石軍を中国共産党との内戦に注力させる、という早期和平方針を作成した。

【1:01:04】 10日後の12月1日に「敵国首都南京を攻略すべし」という天皇の奉勅命令が下り、12月13日に南京を落とした。

【1:01:45】 首都南京が陥落して蒋介石が赤恥をかきボロボロになったことを延安で聞いた中国共産党、毛沢東は大喜びした。

・・・・・・蒋介石の国民政府は、山岳奥地を拠点とする一地方政権に堕した。

【1:03:08】 南京攻略後も蒋介石の抗戦が続くので、さらに奉勅命令がくだり、昭和13年10月までに武漢三鎮を陥落させた。

【1:05:10】 ドイツは利用価値はなくなった蒋介石を見捨て、親中路線から親日へ転換した。

【1:07:10】 「日独伊三国同盟」をドイツが提案。蒋介石政府への武器輸出による財源確保と軍事顧問団として実践経験を積む第一ステップから、英・仏を倒してドイツがヨーロッパの覇者になるという次のステップに移った。

【1:08:08】 ドイツは三国同盟により日本にソ連を牽制、英・仏さらにアメリカの打破を日本に期待した。

【1:09:00】 日本陸軍は、ソ連の満州侵攻をドイツが牽制することを期待。海軍は三国同盟に絶対反対。弱いドイツ海軍と組むメリットがない。海軍の井上茂美はヒットラーの『我が闘争』を原書で読み、日本人を蔑視して「ドイツの手先として使うのに便利」と書いていることを軍務局長名で海軍省内に警告したが効果は薄かった。

【1:13:08】 日本の仮想敵国はソ連であり、その防波堤の満州がガラ空きなので、陸軍軍務局長の武藤章は支那の日本軍85万人を50万人に減らして満州へ移しバランスを取ろうとした。

【1:14:24】 昭和15年6月22日ドイツがフランスを降伏させると武藤章は三国同盟を推進。

【1:15:01】 アメリカがイギリス側で参戦する可能性が高まると、ドイツは日本をアメリカの弾除けにするべく軍事同盟を熱望し、外務大臣 松岡洋右は多くの反対を押し切って三国同盟を昭和15年9月27日に調印した。アメリカとの関係悪化。

【1:16:15】 山奥の盆地である重慶に逃げ込んだ蒋介石軍への攻撃を検討したが、地上戦も爆撃機も無理という結論だった。しかし、昭和15年11月30日天皇は参謀総長 杉山元に「長慶まで行けぬか、行けぬならどうするか」とご下問され、「無理です」と返答はできないため困惑した。

【1:19:50】 重慶の蒋介石政府を滅ぼすことができないのは米英が支えているからだ。米英に大打撃を与えて支援を止めさせ蒋介石に降伏させる、という判断で日本は米英との戦争に入っていった。

【1:20:59】 昭和16年12月8日正午の「開戦の詔勅」には「・・略・・長兄に残存する政権は、米英の庇蔭を恃みて悛めず。米英両国は、残存政権を支援して東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて東洋制覇の誹謗を逞しうせむとす。・・略・・帝国は今や自存自衛の為、蹶然起って一切の障礙を破砕するの他なきなり。」と書かれている。

・・・「開戦の詔勅」は、太平洋戦争の目的は支那事変の局面を打開するため、蒋介石を孤立させて無条件降伏に追い込み、支那事変を武力解決するために踏み切ったものであることを国民に示した。

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