top of page

徳川家康vsスペイン国王、
「関ヶ原の戦い」の裏で進んでいた日本征服計画とは? (前編)

月刊歴史塾  「検証 日本史のウソとホント」

世界が恐れた 徳川家康

信長・秀吉に続いて天下統一を目指した徳川家康が関ヶ原の闘いに勝利した1600年頃、世界に目を向けるとスペイン・ポルトガルが覇権を争う大航海時代でした。
 軍事最強国スペインは中南米の国を制圧したあとアジアに侵攻し、1571年にフィリピン全土を征服。次の目的地を日本に定めます。
 すでに、信長の時代にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着して以降、宣教師たちがキリスト教の布教をすすめ、日本国内に内応者を増やして武力制圧への準備を整えつつありました。宣教師は他国を間接侵略する先兵でもあったのです。
 国内の統一を果たす徳川家康は、一方ではスペインやポルトガルの動向にも敏感でした。イギリス人のウィリアム・アダムス(日本名 三浦按針)が外国の情報を伝えていたのです。
 三浦按針は1600年4月にオランダ商船「リーフデ号」が豊後臼杵湾に漂着したときの船員です。1588年、イギリスが無敵艦隊スペインをアルマダの開戦で破ったときには艦隊の船長でした。家康は三浦按針を外交顧問につけていたのです。

 

また、後編の内容になりますが、徳川家康が外国事情に通じていたことに加えて、当時日本が世界でもトップクラスの数の鉄炮保有国=軍事強国であったため、スペインは安易に攻め込まなかったのです。

 日本に鉄砲が伝来したのは1543年にポルトガル船が種子島に漂着したときで、刀鍛冶たちが国産の鉄炮造りを始めました。戦国武将たちはこの新しい武器を備蓄し、1575年の長篠の戦いでは織田・徳川軍が鉄砲隊3000人を擁し、鉄砲隊500人の武田軍に勝利しました。
 1600年9月15日の関ヶ原の闘いで使われた火縄銃は、東軍(徳川)20,000挺・西軍(石田三成)5,000挺、合わせて25,000挺が投入されました。鉄炮は量産されていたのです。

bottom of page